昭和44年07月20日 朝の御理解



 御理解 第28節
 「病人や代々難儀の続く人が神のおかげを受けるのは、井戸がえをするに、八、九分かえて、退屈してやめれば、掃除はできぬ、それで、やはり水は濁っておるようなもので、信心も途中でやめれば病気災難の根は切れぬ。井戸は清水になるまで、病気災難は根の切れるまで、一心に、まめで繁盛するよう元気な心で信心せよ。」

 まめで繁盛するよう元気な心で信心せよと。ところが信心せよとこう仰せられる、まめで元気な心では分かるけれども。ここで信心せよと仰るのは、病気災難の根が切れるまでと言う様なおかげを頂く為の信心という事になりますよね。この御理解を頂きますと。ただ信心を続けておるという事ではない。本当にここに病気災難の根が切れるほどしの信心をいよいよ一途に、繁盛するように元気な心で信心せよと。
 昨夜合楽会がございました。遅うまでいろいろ信心の共励がございましたが、まぁ殆どが合楽の方ですから、いわゆる信心がまだ若い。私共がこの合楽に参りましてから、信心を始めなさったと言う様な方達ばかりですから。昨日はまぁきたんのない、一つのまぁ質問といったものを、まぁこんな事を言うたら笑われるかも知れませんけれども、と言うてその話が出たんです。けれどもやはり信心を進めて行く信心を。金光様の信心を本当に分かって頂く為には、やっぱりそこんところを分からにゃいけん。
 いや実はそのう村のもんがまぁ言うとる訳ですよと。とにかくもう朝から晩まで、いつもあそこ自動車が一杯止まって、もう最近は一時の御祈念が夏期修行があっておりますから、沢山の人がお参りをして来る。中にはもうそれこそ福岡辺りから、そのそれこそ一日に2回も3回もお参りをして見えるという話。金光様の信心すりゃあげぇん参らにゃんごとあんならとても私達じゃでけんよという事らしいですね。どうしたならばそう言う様に毎日毎日お参りせな、いわゆる日参をしなければ。
 合楽の場合はこれ日参どころじゃない。日にそういう遠隔の所からと確かに月次祭とか、色んな会合とかになる時に必ず皆やっぱり3回参って来よりますからね、福岡の方達は。とてもそげんな信心なとても私だんとても出来んとこう言う訳なの。まぁ合楽会の方達はもう合楽会の日だけしか。まぁ月に一回なら一回だけ、それをもう夜の御祈念が済んでから、10時頃からやって来ると。そしてまたもう時間それこそ立つのを忘れるようにして信心の話をしたり、聞いたりはされますけれども。
 そのうまぁそれでまぁ自分は信心、まあ村の者がとやこう言う中にあって、自分はまあ信心をしておるという気持だけれど、けれどもその毎日日参をする人達の気持は分からん。またそうしなければおかげが受けられんと言うなら、これはとても私どんじゃ出けんと、まぁいわゆるこんな事を聞いたらね、笑われるかも知れんけれどもという話が出たんです。いつもそんに言うてみりゃ成程そうですもんねぇ。病気災難は根の切れるまで一心にまめで繁盛するよう、元気な心で信心せよと。
 なるほど病気災難の根の切れるまでと。元気な心で繁盛するように一心に信心しておる。そういう例えば人間の悩み苦しみと言う様なですかね。そう言う様なものが断つ、災難がそういう物がなくなる。こんこんと湧いて来る有り難い井戸の水のようにです。そういうおかげを頂く為に、それこそ井戸は清水になるまでの、まぁ井戸ざらえ的な信心を、まぁしておる訳ですけれども。まぁそれぞれ信心。自分の家のめぐりの深さと、めぐりの自覚に立って。
 とってもとても自分がどのくらい一生懸命信心しても、自分の家のめぐりのお取り払いは出来る段の事っちゃないけれども。やはりしなければ子供にも孫にもいつまでも、そういう濁った水を与えなければならないような結果になるから、一生懸命にお参りをしておると言う様な人達も、偶にはありましょうね。これは私の従弟の、田川郡にあります従弟なんかは、もう本当にそこだけに焦点を絞って、自分一代はどげな難儀をしても、苦労をしてもいいと言うとんですからね。
 そして実際に難儀苦労の中をやはり何十年間信心をする。ほらぁもう本当に珍しい信心をしております。但しどうぞどんなにめぐりが深い家でも、私の家の牟田と言いますが。牟田のようなめぐりのお取り払いを頂いて、子供には孫にはまぁめぐりを残さんで済むおかげを頂きたいというのが、もう一生懸命の信心であり御用であり。精進しておるのであります。その人がやっぱね。いよいよ自分とこのめぐりの深い、本当にめぐりが深いなぁと思うような事がいくらもあったんですよね、また続いておるんです。
 ですからもうめぐりのお取り払いを頂いておる為の信心が、おかげなんかも全然考えてもいないような風ですね。そういうのもやっぱ偶にはあるんです。合楽は大体そんなに深刻に、その自分のめぐりを自覚しておるという人は少ないと思うですけれどもね。ですからめぐりのお取り払いも頂き、頂きお取次ぎを頂いておかげを頂きながら、信心が段々分からせて頂く事の、喜びとか楽しみと言った様なものが、いよいよ元気な心に拍車をかけて、まぁ一心に信心をしておるというのが。
 合楽の方達の一生懸命信心をなさっとる人達の姿じゃなかろうかと、こう思うですね。ところがね今日私はここんところの、本当に病気災難は根の切れるまで、一心にというその信心がです。ただそれだけで果たしてめぐりというかね、いわゆる病気災難の根が切れるという事はめぐりの根が切れるという事だと。と言う様な事が出来るだろうか。これはもっともっと深く広く分からなければ、そこから立脚そこんところに立脚して、お互いの信心がなされて行く。いわゆる信心の稽古はそこが分かって。
 信心の稽古をしなければいけないという事になって来るとです。どうでも御理解3節を頂かなきゃ分からんのです。ですから元気な心で信心せよと、元気な心で一生懸命信心しよればですよ、病気災難の根は切れるかと言うとそうじゃない。なら元気な心でここでですよここで信心せよと仰っておられる信心とは、めぐりの根が切れるような。災難の根が切れる様な信心を言うておられる訳ですね、信心せよって言うのは。だから他の所で使っておられる信心とはちょっと意味が違うんです。
 病気災難は根の切れる程しの信心をせよと仰っておられる。ですからここんところをならどういう信心をさせて頂いたら、とにかく十年でも二十年でも信心辛抱し抜いて、一生懸命参ってさえおればね、根が切れるかという風にならんのです。そこでなら御理解第3節という事になる。ですから今日は何と言うでしょうかね。金光様の御信心によって完全と言うか、完璧と言うか、難儀の元を本当に断ってしまう。人間真実幸せの世界がここに生まれて来ると言う様な、あのうおかげを頂く為の、まぁ言うなら完全完璧の御理解を頂くという訳になる訳なんです。
 そこでその御理解3節を、ならここで頂かせて頂きますとですねこうあるんです。天地金の神と申す事は天地の間におって氏子おかげを知らず。神仏の宮寺氏子の家屋敷みな神の地所。その訳知らず方角日柄ばかり見て無礼致し。前々のめぐり合わせで難を受けおる。この度生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け理解申して聞かせ、末々まで繁盛いたすこと、氏子ありての神神ありての氏子上下立つように致すとあります。この所がですもう大変難しい所である、この御理解3節。
 これはねいわゆるその初めてこの、沢山な御教えがあります中に初めて出て来るのが、めぐりの実態はこういう所からめぐり、難儀の元がある起こって来るのぞと教えておられる訳ですから、その難儀の元を私共が断つ為には、どうでもここんところが分からにゃいけんていう事になる訳なんですね。そしてここに至って来る時にです、いわゆるこれは金光教祖でなからなければ説き得られなかったところ。いわば釈迦でもキリストでも説き得れなかったところ、がこの御理解3節にハッキリ出て来るんです。
 昨日もやはり合楽の方で月に何回しか参って来ない。ところが大変この方は信心深いわけです。子供達はまぁ熱心に参って来るんです。兄弟3人がもう本当に毎日参って来るです。高校、中学生行きよる。ほれでもう近所の者からあそこの息子は金光さんにボウケとるとじゃろうち言うちから、近所の者が言うくらいに毎日参って来るんです。試験やら始まるともうここに泊り込みで、その神様にお願いしながら試験勉強するんです。その方非常に信心深いんですね。
 もう前々から何かぶつ様ぶつ様と言われるか何か、仏教関係の宗教して非常に拝む事の話を聞きよると、本当そうですもんねと言うてね、このおじゅ数珠お数珠ですね。お数珠を手にかけてお明かりを明々と上げて、その仏様の前に座って一心不乱に拝ませて頂いておる。もうこれがね有り難うて楽しゅうてたまらんて言われるです。はぁもう信心にはこの拝む祈る。しかもですねその拝む事が楽しゅうてたまらんと言う様にならなければ、信心は出けませんものね。
 ただお参りしてお願いだけして帰って、ツーっと帰ると言った様なもんじゃ、いわばだだめが違うです信心が。この数珠をかける手に数珠をかける。鐘を打つおろうそくを明々と仏前に上げてです、一心不乱に拝むという事がです、もうとにかく有り難いとこう言われる。それで私は思いますと。やっぱりぶつ様でも神様でも、ようと考えよると同じ事っじゃなかでっしょか、一つになるとじゃないでしょうかて言われるんです。
 だから私申しました。そうですよって、仏様でも神様でもやはり一生懸命拝みよると同じ事になって来るとですよち。ただ仏様といい仏様、神様と言うだけの事であってそうですよと。金光様の御信心でも貴女が仰るように、私でも実はもうあのお数珠をかける、お数珠をつまぐるという事なんかは、もう大変私は好きなん昔から。もう出来るなら御結界に数珠ばここにかけときたいぐらいに好きです私は。あの数珠をつまぐる、このうひとつの雰囲気とでも言おうかね。
 有り難いなぁ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と言うてこう数珠をつまぐるという、私はあの気持ちがとても好きですね。ですからこうして金光様のお話を頂いて、拝ませて頂いておるとです、仏様とその神様が一つになられる。だからようと煎じ詰めるとひとつ同じ事っちゃないでしょうかと言われるから、そうですよ同じ事ですよと私は申しました。けれどもただ信心がもう宗教には拝むという事はもう絶対つく。これは何様だって同じこと。西洋の宗教だって同じ事ね。
 もうこれは洋の東西を問わずです。拝むという事は絶対付き物なの。一心不乱に拝むという事はね。けれどもその拝む事によって、ただ自分が有り難うなるというだけならば、〇〇さんあのそこにある、ならこの石のね石は前に私はコップがありましたから言うんです。このコップを前に置いて拝んでも同なぁし事ですよっと私が申しましたね。わが心に神がござるから、一心を立つればおかげになるのじゃと。奇跡ぐらい現れるんだと。一心不乱に拝む、一心不乱に拝む。
 仏様の事はいらん神様の事はいらん。柱一本を目当てにして拝ませて頂いても、わが心に神がござるからおかげになるのじゃと、教祖もそこを言うておられる。だからその拝む事だけに、その越に入っておるというのでは、だから信心のいわば半分が分かってというだけでありましてね。側に久富先生がおられたから話すんです。この久富先生はね、若い時にはキリスト教の布教までして回られた方で。もう大変いわば教学的に、久富先生は教学的にキリスト教を極められた方なんです。
 そしてたまたま私共との出会いになり、そして私の話を聞かれてたまがられた事はです、とてもとてもね今その当時は椛目でしたから、椛目の先生が言うておられる事は、釈迦でもキリストでも説き得なかった事を、合楽の先生は説きござると言うのが、合楽にいわゆる私にいわば帰依されたのはその事だった。永年のキリスト教をいわば投げ捨てて、なら金光教に入って来られた訳なんです。それは様々な所にそれを感じますけども、とりわけ今日私が言うておる、この御理解3節はですね。
 本当に釈迦もキリストも説き得なかった事。言うならどういう事ですかと、先んじ詰めて言うとですたい。いわゆる病気災難の根が切れるという事。もうこれからは病気災難の起こって来るような元を作らんで済む程しの道をです、しかも安易にみやすう説いておられるという所に、金光いわゆる是は教祖の生神金光大神でなからなければ説き得なかった所。それでその方に私が昨日申しますようにね。拝むと言う事は有り難い。
 なるほど貴女が仰るように神も仏も一つだというところになって来るかも知れませんけれどもですね、その仏の道を説いた人の心の上に開かれた心それが違う。いわゆる悟りの開き具合が違うんだという訳ですね。キリスト教をが開けられた、いわばキリストの説かれた、お釈迦様が説かれた、何々様が説かれたという、その説かれた例えば心の開き具合が違うんだと。まぁ例えて言うなら食物訓一つ言うても同じでしょうがと。中に一人その、お大師様の信心をしよるという訳じゃない。
 もう私の方の母はこのお大師さんのその、何んて言うんですか。回って回るのがありますよね年に一回か何か。もうそれこそ何十人何百人の人がダーっとの連れ会うてそのう、町から村へそのお祭をしてあるその、お大師様にお参りをしますと、もうその日はどこでもお接待が出来てね、何処何処の午後ご飯が美味しゅう出けとる。あそこのコンニャクはいつもとても美味しいと言うてその、もうそれこそ沢山のお袋に色んな饅頭やら、おせんべいやらを頂いて。
 それでもうさぁ今日はその、お大師さんのそういうような、千人参りち言うですかね。千人参りじゃからと言うて、皆連れのうてそのまぁ泊りがけで回って、もう楽しゅうてこたえんという人もありゃ、本当の信心で参る人もあろうけれどもです、家の母が言いよりましたち。もうお大師さんのごたる信心な、あげな卑しか信心はなかて。もうほんな食べたり、飲んだりする事を楽しみに参るごたる信心なしちゃでけん。自分方も一向一宗じゃから、そげな事で参っちゃでけんと言うて母が言いよりましたけれども。
 笹栗さんにだけはお参りをするという方があったんですね、昨日話す中でね。ところがその今はね以前はお大師さんの信心しよりゃ絶対お酒という物を飲んじゃでけじゃった。だからその誤魔化して飲めば飲める。例えば笹栗さん辺り宿屋に着きますでしょう。そすとごま酢をくれと言うと、酒はちゃんと持ってくるごとなっとる。だから誤魔化せばいい訳なの。ところがいや今頃はもうごま酢ちまっでん、酒でん何でん魚でんどんどん出しますよち言う様な事この人が言いよんなさいました。
 もうそんなに例えば節度を無くしておるのだとこう言う、「真言密教」なんかはね。以前はこんなもんは食べちゃでけん、飲んじゃでけんと言うてから今はもう時代に便乗して食べてもよかちいうごたる、もう教えがそげな風に変わる時代に便乗しておるという事についての話が出ておりました。これはなら仏教にあのでもそうですよね精進。生き物を殺してはならんとか食べてはならんとか。キリスト教でもそうです。お酒は飲んではならん、ただ飲めるのはぶどう酒だけだと。
 と言う様にいわゆるまぁ十戒とか五戒とかと言ったような物が、仏教では五戒と言うんですよね。キリスト教では十戒とこう言う。そういう厳しいその事がある。ところがなら金光教祖はその食物なら食物の事について、どういう風に悟っておられるかと言うとですね。食物はみは人の命の為に天地の神が作り与えたまう物ぞと、いわば喝破しておられる訳なんです。それは牛でも良かりゃ豚でもいいんだと、魚もいいお酒もいいんだと。ただし大酒大食をして自分の命を縮めるような事だけはするなと。
 ただ有り難く頂けばと仰っておられる。大変な違いですね。食物はみな人の命の為に天地の神様が作り与えられておられるのであるから、例えば魚を食べてもです、お神酒を飲んでもです、それが有り難くならせて頂く事の為ならば、またねそれが栄養になる事の為ならば、何を食べても飲んでも良いのだと、これは食物訓だけでもそんなに違って来る開きが。そうしてその例えば食べるという事によってです。その野菜でもお魚でも成仏する。いや本当に生きて来るちゅう訳です。
 人間が食べてこそ初めてその植物が生きて来るんだと言うておられるんです。だからもう大変なやはり教えである事は分かりますよね。ただそれを私共がまだ本当に教祖様の、この180何か条のこれだけに限定しておる。この深さという物に触れきっていないから、まぁだ金光教は未完成の信心だという風に、これは自他共に教内の人もそれを言うておりますけれども。
 本当これを御神意のある所を分からせて頂いたら、とてもとてもお釈迦様やらキリスト様が説きなさったぐらいな事ではないだけの、深さという物を持っておるのが金光教の信心だと。だからこそ例えば、人間の病気災難が根の切れるまでというほどしの、大変な事でも教えられるのだと。もうこの世は苦の世だ苦の世界だと。と言った様なそのもう、苦の苦という物はもう切り離す事は、人間は出来ないんだと言う様なものではなくてですたいね。いわゆるまあ仏教的にはこの世は極楽とでも申しましょうか。
 あの世この世を通しての極楽の道が開けて来るという風に、教祖は説いておられるね。そこんところをんなら御理解3節で分からせて頂きますとです。天地金乃神と申す事は、天地の間に氏子おっておかげを知らずと。天地の中に生かされておりながらです、その天地の大恩を知らないとこう言うておられる。天地の恩恵なしにはそれこそ生けとし生ける者すべてがです、もうそれこそ天地のお恵みなしには、もうアッという間に枯死してしまう、天地の働きというものなかったら。
 枯れ果ててしまう世の中というものが。そういう大変なお徳の中に生かされておりながら、そのおかげを知らずとこう。天地の間に氏子おっておかげを知らず。そこでそのおかげというのを説かれた訳ですよね。お恵み御恩徳というものを教祖は説かれた訳です。神仏の宮寺氏子の家屋敷、みな神の地所その訳知らず、日柄方角ばかり見て無礼致し、前々の巡り合わせで難を受けおるとこう。ここんところがですね先ずここんところを、やっぱ分からにゃいかん。神仏の宮寺。
 という事はですいかにそこに神様が静まってござっても、お寺さんがあってもお宮さんがあってもです。それとてもやはり神の言うなら釈迦もキリストも神の氏子だという意味なんです。ですからその人達の持ってござる、いわばお宮さんであろうがです、またお寺さんであろうがです。それは全てが神の地所だ神の物だとこう言うておられる。すべてが神の物すべてが神の氏子。どういう偉い宗教家であっても、天地の親神様の氏子に変わりはないのだとね。
 その訳を知らずにそういう事を知らずに、日柄方位ばかり見てという所が大変な事ですよね。例えばこれは百年前ではなくても、教祖出現の時代にじゃなくて、現代においても、やはりここんところで、非常に世間狭くしておるのがございますよね。結婚と言やぁまず日柄を見る相性を見る。家を建てると言やぁ方角を見るね、ここは鬼門住みとかここには金神さんのござる、何とかちいったようないわゆるその迷信から、まぁ一歩も教祖金光教が生まれてから百年、百十年にもなりますけれども。
 まだまだその訳を知った者は本当に僅かな事。金光教の信心する者だけ。それも金光教に本当に帰依しておる者だけしか分かっていない。金光様の信心しよったっちゃやっぱり日柄方位を言う人があるんですから。もう愚にも付かない程しの迷信なのですよね。これはほんならだらどういう事かと言うとですね。そういう本当でもない事を本当と思い込んでという意味なんですここはね。その証拠にはなら日本人だけに金神さんがござるという、いうはずはないでしょうが。
 私は長年外地におりましたけれども、あちらではですね金神さんも言わなければ、日柄方位も言わない。その変わりまた他の迷信がありますけどね。ですからもう本当にこれは日本人がでっち上げた迷信なんです言うならば。けれどもここにですね迷信でも迷った事を信ずるとです、やはりその迷うたような事が起きて来るという事実はございますよ。だからそこんところは、また日を追うてお話させてもらいましょうけれどね。そういう例えば正しい事ではない、本当ではない事を本当と思い込んでおるという事。
 そこでならそれはどういう事になるかと言うと、なら私共がいわば見当違いの思い方、見当違いの生活をしておるという事になるのです。本当な事じゃないところに見当つけてるわけです。そういう事がですね、日柄方位ばかり見て無礼いたしという事がね。そういう事がどのくらい天地に対するご無礼になるかという事を、ここに言うておられるんです。ただねそうしておるという事だけがです。ただなら金光様の御信心しておっても、そこが分かっておってもです。
 今日は友引じゃからお葬式を一日伸ばす、なんてんち言う様な事をする事はです、それで済むだけじゃなくて、そういう事はご無礼だとこういうね。去年ついこの頃浮羽のある教会の御信者さんが亡くなられた。ところがお葬式をするのにですね、これはあの吉井の熊谷さんがお話なった事ですから事実です。金光様の信心を頂いとってからですよ、友引じゃったんでっすよ。だから一日伸ばそうちいう事になったんです。伸ばしたのは良かったけれども、あの吉井川のこの頃の梅雨でですね、堤防が決壊してから。
 ほぅれこそもうあっという間にその濁流が浸入して。それこそお葬式が押し流されるようなお葬式だったという。たったそのともっともっ友引じゃけん一日伸ばしたばっかりに。そういう例はいくらもありますね。もう本当に愚にも付かない事だけではなくてですね、それがぶっここでは無礼致しとこう言うておられる。いわばそう言う様な考え方は天地に対するご無礼になるんだぞとこういう事になる。私共は平気でいかに天地にご無礼をしておるかという事が分かりますね。
 相性を言うたり日柄を言うたりする事は、天地に対するところのご無礼ですから、そういう事を言うちゃならんという事が分かります。ですから今日私が今言いよるところは、ええですかそのめぐりの根を切ってしまう、これからもめぐりを作らんで済むという大変な事を言うておる訳ですよ今そういう事は。そういう風に天地に対してご無礼を致し、前々のめぐり合わせ。もう先祖代々からそう言う様なめぐりを作って、いやそう言う様な天地に対するご無礼をしておって。
 現在お前達が難儀をしなければならない元がここに出けたと、こうハッキリ言うておられます。天地に対する対して無礼致しと言う所なんです。ですから私共がここから分かったんですから。そういう天地に対するご無礼をの事があってはならない事が分かります。そういう御無礼な事天地に対するご無礼。その天地に対するそのご無礼そのものがね難儀の元になっておると。もう言うておられるめぐり。金光教では随分めぐりめぐりと言うが。その沢山の御教えの中に出て来るのはここだけなんですめぐりと言うのは。
 前々のめぐり合わせで難を受けおると。さぁそこでこのたび生神金光大神を差し向けと。そこに初めて生神金光大神御出現の有り難かった事。その御出現のまぁ言うならば理由。天地の親神様がその生神金光大神を通してね。こう言う事で難儀な氏子が難を受けておるのであるから、そこの所の道理訳を言うて聞かせてくれとこう言うておられる。この度生神金光大神を差し向け願う氏子におかげを授けと。先ずここんとこよね。だからいくら本当な事でも、今まで知らなかった事を言う事ですから皆が信用をするまい。
 だから先ず願いに来る者にはおかげをやってくれとこう言う。何ぁにも分からん氏子達に先ず願う氏子におかげを授けて、そしてその後におかげを受けて成程神様じゃなと、氏子が分かって来る様になった所から、天地の道理であり又は天地の御恩徳であり。又は今今日私が申します、めぐりを作る元であるところの見当違いな生活、見当違いな生き方そういう見当違い。いわゆる本当ではない事に見当をつけておると言う様な事をです、改めさせてくれよと言うのが理解申して聞かせとこう言うておられます。
 そこでその見当違いていう事が、ならどういう事になって来るかと言うとね。いわば氏神仏の宮寺氏子の家屋敷とこう言うておられますけれども。それは私はここんところは見当違いという意味という事を申しましたようにですね。例えば息子が言う事を聞かない。こういう災難難儀な事が起こって来ると。例えばそういう難儀な時にです、こういう難儀が、この人がおってやったからこういう難儀な目に合うたと。家の息子はどうしてこんなに言う事聞かんであろうかと。
 どうぞ息子が言う事を聞きますようにと言う様な思い方は、これはもう見当違いも大変な見当違いだと言う事なんです。このこの難儀というものはです。この人がおったからこういう難儀に会ったのじゃない。例えば病気でもそうです。あげな物食べてからこういう病気をしたというのじゃない。それは見当違いだとこう言うておられる。はぁ昨夜ちっとばっかり飲み過ぎたけんで、胃がもう今日は痛うしてこたえんというのはね、それは見当違いの思い方なんですそういう思い方は。
 それを一般の者にはそういう訳です。家の息子はどうして言う事を聞かんじゃろうかと。どうしてこんな難儀な事が起こって来るじゃろうか。そういう考え方を一掃しなければいけない。はぁ息子の病気は自分の病気と頂かにゃいかん。息子が言う事聞かんのは、私自身が改まらなければいけないということ。これが本当な考え方。見当違いじゃない訳ね。病気もあれば食べたから病気になったのじゃなくてです。それを食べなければならない、まいっちょ向こうに元があるという事を追求をするという所にです。
 本当な事を追求して行くという事になるのです。こういうあの人がおったからこういう難儀な目に会う。なると成程そういう事になりますけれども。そこでそこんところをです、肉眼をおいて心眼を開けとも仰る訳です。肉眼で見るとやっぱりそういう風にしか見えんから、心の目を開かせてもらうと、その原因という物はまいっちょ、向こうの向こうにある事が分かるわけ。それを私共はただそれが原因のように思うておるという事はです、ちょうど氏子のね。神仏の宮寺氏子の家屋敷。
 その訳知らず日柄方位ばかり見てと言う様にね。決して日柄方位なんかを見るという事は本当な事ではない。むしろそれは神様に対して無礼になる。その無礼がめぐりの元になっておると言うのであるから。そういう見当違いな生き方を改めて。言うならば肉眼を置いて心眼を開かせて頂く。いわば心眼の世界に生きぬかせてもらえれるような、信心を分からせる為にここに理解申して聞かせと仰る。そういう信心を開い頂いてくれよと。心の目を開かせて頂く、いわば御理解を聞かせて、そういう信心をさせて。
 氏子一人一人が心の目を開かせてもろうて。末々まで繁盛いたす事、氏子ありての神、神ありての氏子。上下立つように致すとこうある。末々まで繁盛いたす事。そういう信心の先にです、いよいよいよいよ人間が喜びの生活に入って行けるというだけではなくてですね。氏子ありての神神ありての氏子。いわゆる神様も共に助かって頂く事が出来る、信心共栄。信心共々に繁盛して行けれる道がそこから立って来る。そこで氏子上下立つように致すとこう仰る。
 そういう信心を頂くところからですね。氏子上下立つように致す。金光様の御信心のおかげって言うのは、私がおかげを頂いたと言うだけではとどまってはならん。私がおかげを受けたという事が、そのまま神様の助かりにも繋がっておらなければ、駄目だという事をいつも申しますが、それは氏子上下立った訳なのであります。私共おかげを受けるという事によってです、神様も助かって下さる事が出来ると言うのである。そういう大変なことをです説いておられる。
 そこで御理解28節ですねでしたかね。今日のところですね。病人や代々難儀の続く人は神のおかげを受けるのは、井戸替えをするに、八、九分かえて退屈してやめれば、掃除は何時までもできぬ。やはり水は濁ってるようなもので、信心も途中でやめれば。だからこういう、今私が申しましたような信心がね、続けられなければならないという事になるのです。病気災難は根の切れるまで。一心にまめで繁盛するよう、元気な心で信心せよという事は、見当違いの信心からですね。本当な所へ見当をつけての信心。
 本当の事を分かっての信心。そういう信心がです。ならやはりここでは、まめで元気な心でと仰るように。元気な心を出さなければ出来ない信心。だからこそ朝も参ったけども夜も参らなければおられんのであり。いわゆる合楽の方達に対するところの変人のようにですね。ああしてそれこそ日に何回もお参りをさせて頂きよる人は、もう苦しゅうして、苦しゅうして。術のうして術のうしてで参って来るのではなくて。そのところの訳が分かって行く事の喜びを楽しみをです、いっぱい心に頂いて。
 お参りをして来る人なんですよと言うて、まぁ返事をした訳なんです。ここで初めていうなら御理解28節がですね。どういう信心をさせて頂けば、しかもそれを辛抱し続けて行けば、病気災難が根が切れるかという事になって来ると、いわゆる御理解3節の只今私が申しました所の、いわゆるそれこそ生神金光大神でなからなければ説き得られないと言う様な所をです、本当に信じ本当にそれを分からせて貰わなければならん。そすると信心させて頂きよっても、これは見当違いの信心が随分ある事が分かって参ります。
 本当のところに見当をつけての信心。そういう信心をね、お互い目指させてもらう。そこから初めて病気災難は確かに、切れる程しのおかげが受けられる事を、私は確信致します。ただ参りさえしよれば病気災難が、根の切れるという事ではないて。いわゆる見当違いの信心言われますね。見当違いではない本当なところへ、見当をつけての信心をいよいよ、そこに元気な心を持って精進し、信心し続けて行かなければ、ならないという事が分かります。
   どうぞ。